ブロガーが選ぶ超イカした小学生の頃10選
屑親( 父親 )に育てられた杉下恭子が語る
( 現在まで殆ど )性交渉の経験が無い私と
組長( 猫の小間使い・猫の使用人 )が
出逢って29年間・
入籍して22年間
別居を続ける
おかしな夫婦のお話。
※【誇り高き人間の屑・第2版】で
ご紹介していない記事と
【誇り高き人間の屑・第2版】で
ご紹介した記事に修正を加えた分には
NEW の表示をしております
※ 組長兼猫の小間使い(猫の使用人) の人物紹介は
後ほど致します
※ 組長兼猫の使用人(猫の小間使い) は
杉下家事情をブログにアップすることを
承諾しております
※ 恭子の秘密の小部屋 ➡︎ 杉下恭子の住居
米粒HOUSE ➡︎ 猫の小間使い兼猫の使用人の小屋
( 米粒HOUSEの詳細と組長が猫専属になった
理由は未来記事でご説明致します )
笑いあり涙あり感動なしの
【誇り高き人間の屑】
存分に堪能くださいませ。
【誇り高き人間の屑】へ初めてお越し頂いた方へ
あなた様のお時間が許すならば
下に添付されたブログからご覧頂けたらと存じます。
0歳 〜 小学一年生までは
地味記事をアップ、
小学二年生から
激しめ記事をアップします。
今までのお話はコチラです。
母親が妹( 二女・2歳 ) と私を
保育園に送り届け、その場を去っていくと
妹は激しく泣いた、毎日泣き叫んでいた。
他の園児達は
私達より数ヶ月前に入園して
保護者と離れる不安を
解消してしまったからなのか
園内で泣いているのは妹一人だけ。
そのため、妹が園内で泣く姿は
とても目立っていたようで
園児(男の子) から
「 毎日泣いているのはお前の妹だろ?
いつもパンツみえてるな。」と
私はよく からかわれていた。
妹は常にワカメちゃん状態、
パンツが見えていた。
妹の事を悪く言う その園児に対して
腹立たしくてたまらなかった私が
どのような言葉を発したのか記憶にないが
モジモジしたりメソメソしたり
ということは決してなかった。
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毎日 泣き叫ぶ妹の横に
私はピッタリ寄り添っていた。
彼女の顔を覗き込みながら
彼女の涙を拭いていたシーンは
今、下書きをしながら鮮やかに甦る
と同時に涙が出てくる。
何の涙か分からない。
「【キチンと妹の面倒をみている、
優しいお姉さん】って保育園の先生が
恭子のことを褒めてたよ。」と
私の妹への接し方は、実に細かく
保育士から母親に伝えられていた。
人間として初めて受けた評価だった。
保育園では様々な経験ができ
それに伴い様々な感情が芽生えた。
初めての集団生活は
私の人格形成のために
絶対必要な場だった。
親族だけに囲まれた環境でも
人格形成はもちろん可能だ
しかし、私の両親の下 (モト) で
まともな人間は育たない。
だから、私は52歳になった今でも日々
自身の人間性・
誤って身についたイカレタ感覚の
修正している。
初めての保育園、
誰かと遊んだ記憶が全く無い。
初めての集団生活、
人との関わり方・交わり方を
知らなかったようだ。
後に、ソレは学び解消されるが
どうやら、一匹狼の素質を持ち合わせて
いたようだ。
私の人生の随所に
一匹狼のシーンが現れていたのだが
実は、自身が一匹狼だと気付いたのは
このブログを始めるにあたり
過去を振り返ったときだった。
『 こんなに歳をとったのに、まだまだ
自分の事を分かってないな… 』と
自身に呆れた。
いつも【いいね】を押して頂き
本当にありがとうございます!
【いいね】=【読んだよ】の意味もあると
捉えていますが、いづれにせよ人間の屑・杉下に
【いいね】は勿体のうございます。
どうぞ、そのまま お持ち帰りくださいませ。
恐れ入りますが、現在アメンバーは
募集しておりません、ご了承下さいませ。
特ダネ小学生の頃♪季節物グッズもたくさん♪
皆さん こんにちは。 1992年は11月3日の文化の日に 大阪駅に、少し撮影に。
寝台特急彗星 新大阪行です。日豊本線都城からきました。 1990年代には 大阪から九州方面への寝台特急は 日豊本線 鹿児島本線 長崎本線方面に各1往復になっていました。 彗星も1970年代には 3往復ほどあり 大分 宮崎 都城に各1往復づつでした。
EF65-1107をアップで、 いつでも撮れると油断していたためか あまりまともに撮った写真がなく貴重な1枚。 この後 彗星は、2000年に あかつきと併結され この単独のヘッドマークも見納めに。 私が小学生の頃の1970年代 ブルートレインのヘッドマークは 東京発の西への寝台特急のみで 関西発の寝台特急にはついていませんでした。 牽引機関車も 東京はEF65-500万代対する 関西地区は EF58で しかもヘッドマークはなし。 かなり残念な気持ちでした。 しかし いつからかは 判明していないんですが、 全国の寝台特急にヘッドマークがつくことになりました。ですので この 彗星 や あかつきの 単独のヘッドマークの期間は 短期間であったと思います。
3往復もあった 彗星も 1往復。しかし 日豊本線を走る 富士は 南宮崎止まりになっていて 宮崎以南 都城まで走った 最後の寝台特急になりました。
それでは、彗星特集みたいに 1980年代の彗星を。
多分1980年の夏だったと思います。 寝台特急彗星6号 新大阪行だったかと。 彗星3往復のトリを努めて 宮崎から。この583系彗星の1往復のみ 1両を全席指定の座席車として運転されていたようです。 この時は、中学3年生の夏。受験の気晴らしに 友達2人で 阪急の始発で大阪駅に 確か 夜の21時ごろまで ボーッとして過ごしました。 当時の鉄道ファンだったかに 密着 東京駅か 上野駅24時間という記事があって それに触発されて 行きました。
恐らく1977年ごろ 寝台特急彗星1号だったかと 小学6年生の頃?親に連れてきてもらって 撮り鉄に行ったと思います。
同じく 寝台特急彗星2号かと。 24系25型のB寝台2段式が新車で投入された頃だったかと。
B寝台が2段式になったのは、関西地区の方が早かったような気がします。 1978年の時刻表で見ると あさかぜ 富士 出雲 瀬戸などは 二段式に置き換わっていましたが さくら みずほは 14系14型の三段式のままでした。多分 個室車 食堂車の兼ね合いだったのではないでしょうか?
御覧頂きましてありがとうございました。